包每天ブログ

日々のおひたし

心臓麻痺さえなりにくい

吾輩は猫である

名前はまだ無い。

 

 

 

夏目漱石の小説のなかでも、

この一節はあまりに有名であろう。

 

 

 

私は彼の小説を読んだ事がない。

 

 

もしかしたら小中の国語の授業で

強制的に読んだかもしれない。

 

覚えていないのだから

それは読んでないと変わりない。

 

 

つまり私がこの一節の先を読んだ事がない

ということを頭において

以降の話をきいてほしい。

 

 

 

冒頭の猫に名前はまだ無いわけであるが、

果たしてこの猫の名前は誰がつけるのか。

 

という疑問である。

 

 

“まだ”とあるので

いずれは名前が付くだろうと考えているはずだ

 

飼い主が名前をつけてくれるまでの“まだ”なのか

 

自分自身が名前を決めかねていての“まだ”なのか

 

 

 

 

ここで私は後者に該当する。

 

名前を決めかねている。

 

 

ネット上様々な場所において、

名前を求められる

 

しかし、

とてもネーミングセンスがないのか

勇気がないのか

用いる適当な名前が思いつかない

 

 

本名を使えばいいじゃないかと

声が聞こえてくるのだが

 

もちろんリアルの人たちと繋がるSNSでは

基本的に本名を使っている

 

 

しかし、世に出すものにおいて

自身の平凡な名前を採用するということは

果たして正解なのかと考える。

 

 

 

 

なにかを発信することにおいて

キャラクターが必要になってくる。

 

もちろん発信するコンテンツは重要であるが

“誰が”というのは甚だ重要になってくる。

 

 

要は想像がしやすいということだ。

 

 

神様」ではなく「エス」と言うし

 

チャールズMシュルツスヌーピーチャーリーブラウンたちを使ってメッセージを伝える

 

 

その方が見えるしキャッチーだし伝わりやすい

何より愛されやすい

 

 

 

 

名前がまだ無いというのは

なんとも不便なものである。

 

森羅万象様々なものに名前がつけられているが

名前がないものは存在自体がはっきりしない。

 

自分自身、個人の存在がふわふわしている

 

未確認の飛行物体でさえUFOと名付けられているのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

早くここでの私の名前を決めよう。

 

このままでは新世界の神も困り果てるだろうから